祈り。
今日で震災から3年が経とうとしています。
心配していることは、被災地ではPTSDにかかっている子供が非常に多いそうです。
この症状は事件が起きた直後から潜在化して、数年後に深い傷に対する恐怖や悲しみというトラウマが表面化するそうなので、子供たちがこれから大人になるであろう今後がとても心配です。
そのことも踏まえ、「ふるさと岩手応援寄付」に開設された「いわての学び希望基金」にささやかながら原稿料の一部を寄付させていただきました。
「いわての学び希望基金」は震災で親御さんを失ってしまった子供たちや、職を失ってしまった親をもつ子供たちの教育や文化活動、スポーツ活動を支援する口座です。
たとえ「偽善でしょう?」といわれても、賢治さんの物語の原稿料はなんらかの形で支援したかったのです。
昨年初めて岩手に賢治さんと交信をしに行ったときに、かつて彼が教鞭をとっていた農学校の跡地に植えられた銀どろの木と約束しました。
(銀どろの木は、風をうけると銀色に葉が光り、ざわざわと音を立てるヤナギ科の落葉樹です。賢治さんがもっとも愛した樹木のひとつです。)
もし賢治さんがこの世に生きていたら、きっとわが身を投げ出してでも支援活動や救済活動を行っていたかもしれません。
震災でおこった原発事故は、人間だけでもなく家畜や犬や猫といったペットにも避難による飼育遺棄という不幸を生みました。
うちの駅前では、常に福島県を中心としたワンちゃん猫ちゃんの避難所を運営しているNPOボランティアの人が街頭募金活動を懸命に行っているのですが、その光景を目るたびに胸が苦しくなります。
その必死さから、いまだ支援が行き届いていない状態だということがまざまざと感じ取れます。
なので、10円50円100円でも役立てれば・・・と出会ったら必ず献金しています。
申し訳ないと感じるのは、私自身、日々の生活に押し流されて震災当時のことや、復興のために今自分がどう動けばよいのか忘れてしまうときが増えてしまったことです。
これは私だけではなく、社会全体からみても、同じ傾向にあるかもしれません。
年数を経るごとに、基金は激減している現状があります。
だからこそ当時の傷を思い出したくない世相となっている今、支援を求める手の存在を無視することはけしてしないように、受け止めたい。
常に今生きている世界でどのようにすれば自分が最大限に社会へ還元できるのか、今後より深く考えてゆかねばならない時代に入ったのだと思います。
今日はずっと祈ります。
多くの失われてしまった人や動物たちのご冥福をお祈りいたします。
そして、今後も東北の復興を願い、自分のできるところで支援を継続させていただきます。